2018年2月19日月曜日

脚本執筆~オリジナルな表現に向けて

脚本の書き方をちょっと変えてみようと思う。これまでのやり方だとただの商業映画になりそう。いまの脳内イメージできちんとした本を書くと、どうも他の監督に撮って貰っても構わない感じになる。現場での自分流の演出を想定した台本作りにシフトしないと「しっくり」こない~完成する映画の雰囲気がもう既にこの時点から始まっているワケだ。このしっくりが大切でこれですべて決まるといっても過言じゃない。この感覚がいままでの作品で一番上手く画面に現れているのが「ぽかぽか~」かな?(笑)あと、「吸血」のラストの流れ。あと「nowhere」もそうだな~特に冒頭。
要するにもうこの時点から自分流の映画作りにしていかないといけない。黒澤が、監督になるなら「脚本を書けないといけない」と終始言ってたけど、あれをただそのまま倣うと商業映画体勢の映画になって、たとえ監督が違って違う映画になっても現場のスタッフはそれなりの映画を想定して作ることになるような気がする。インディペンデントで映画は、ある意味もっと違う方法論があるだろうし、それを模索することがオリジナルな作風を作ることになるだろうと思う(ゴダールはそうしてた一人だ)。これまでいろんな映画の作り方を実験してきたが、この映画はそういう経験を総決算してもう一段上のものにしたい~そうすることが作品をインディペンデントでありながら他の長編作品と変わらぬモノにのし上らせるエッセンスとなる気がする。

2018年1月28日日曜日

あるオカルトチックな

今朝は、ある人との関係性を表した霊性と暗示が混ざった夢、それから自分の深層心理的夢と二つ見た。また昨日は最近では最も純度の高い霊的夢で、鮮明度体感度もそこそこある不思議夢だった。どれも違った意味合いで現状を問うた夢だった。霊的夢はただの暗示的夢と違って夢占いでは殆ど答えを得ることはできず、見た時~体験した時の印象のみでその意味を考査しなければならない。けれども大抵、霊的夢は意味がどうのというより、体験そのものが衝撃的で霊性が高いほど異様な鮮明度と色彩、さらに実体感があって、その例で言うと一度夕焼け空に浮かんだ三日月を見ていたらその表面でなにやら生命のようなものが蠢きだし、やがて月そのものが急激に変化し見る見るうちで巨大化したその光景のあまりの壮絶さに興奮を越え、恐怖に襲われて目を覚ましたことがあった。いったい何故そんな体験をしなければならんのか良く意味が判らない。暗示夢、予言夢のようにその後に現実界で事象として結びつくようなことには殆どない。

2017年12月31日日曜日

2017.12.31.

ついに年末。今年は全然書かなかった。成都の記事が最後。ただ、下書きで二つ書いていたのがあった。ほかに16年に二つ。15年にひとつ。それらは来年公開するか・・。
いずれにせよ、もう今年も終わる。今年は、全体的にすごく良かった、と言い切って良いな。ある意味15年以上にいろいろやった年だった。15年は成都で映画を作ったけど、それ以外はまあまあな年。でも今年は映画さえ作らなかったが、成都へ行ったり、バザールでプロモからギターまでやれることをなんでもやり、最後の最後に個展を開くことができた。個展の感触も良かったと思うし、本当にできて良かった。その意味で今後の自分の計画もたてることができた。いまざっと三つ作品企画がある。これを今後やって行きたい。個展で試みたテーマは今後のアート作品のテーマでもっと掘り下げることができそうだし映画のプロットも「これだ!」というものを掴んだ。そういうわけでいろいろやって今後のための収穫もできた良い年だったと思う。まだまだ書きたいことが山ほどあるけど、もうあと年明けまで2時間半を切ったのでこの辺でやめる。
それでは恒例の皆さん良いお年を、来年も皆さん健康でそして世界がもっと平和になりますように!

2017年4月24日月曜日

成都にて1


成都は小雨模様。月曜で美術館もお休み。というわけで本日は洗濯物、A4二本目のショートクリップの構成・編集、さらに来月のトークイベント用資料のまとめ作業にのんびりと取り掛かっている。また今回、成都滞在は以前書いた長編脚本のリライトと構想中の二つの長編作品のリサーチとその構成作業もあった。が、あっという間に時間が過ぎしまった。どこまでできるかもう判らない。思った以上にショートクリップ制作に時間を割いてしまっている。怠けも当然ある。仕方のない場合は滞在延長もできるけれど、それはできれば避けたい・・。
2年ぶりの成都は前回よりも空気が悪くなった気がする。昨日パンダ研究基地に連れてってくれた前アシスタントのミアは去年6ヶ月北京にいたけれど、あっちはもっと空気が悪いと言っていた。北京から帰省した理由は家賃や生活費が高い、成都の方が食べ物が安くて美味しいからそうだ。人や生活ものんびりしていると・・。彼女は1年前に大学を卒業し、いまは成都の映像制作会社で構成作家として活動、主にドキュメント系の映像作品を配信している。
今回、今のところの一番の収穫は、前回と違う成都が見れているところかもしれない。前回アシスタントリーダーだったハン、そのパートナーであるエイミーさんは映像や美術史を教える大学講師なのだが、なんと彼女の生徒が偶然にもA4のインターンとして今期のアシスタントだったのだ。ハンは数ヶ月前から中心街にある昔は兵器工場だった倉庫街をリノベーションした地区に洒落たカフェを開き、学生らはそこへ通い集う。なにを喋っているかよくは解らないが、皆アートや表現の仲間たちなのだ。ちなみにその店の壁に描かれたダ・ヴィンチ「最後の晩餐」の壁画は、前アシスタントだったジョリーの手によるもの。2年前の出会いが不思議な偶然と発展を遂げていてる。こちらもまだ二十代前半の学生の集まりに便乗させてもらい、彼らの生活や風情を感じ取ることができるのは面白い現象だろう。中国のアート事情はまだまだなのだろうが、彼らの新しい風を取り入れようとする熱意は、まだまだ生き続けて行く気がする・・。

いずれにせよ、どうしたところであと3週間強の滞在。のんびりもするけれど、自身の構想、やれるところまでやっておきたい。

2016年12月31日土曜日

2016-1231

毎年大晦日に総括的文章を書こうと思ってたけど、最後にやったのは2012年だった。黄金町へ来てから一度も書いてなかった事になる。今年は辛いこと多かったし、わざわざ改めてそれを思い出しても仕方のないことだ。だがそれらの辛い経験はある意味、もう一度原点に立ち返って自分の歩んできた道を振り返り、整理して来年に向かって行くための要因となるはずだ。
中国、成都のプロジェクトは長期的な視野で取り組んで行こうと思う。春に行く事になっているが、現在もスケジュール調整中で、行く前になにを準備すべきか、行ったらなにをリサーチするべきかを把握しておく必要がある。前回とは違って制作が目的ではなく、リサーチのためのレジデンスになるだろう。また今回、成都側から来た急な要望もある意味、こちらの企画への優柔不断さに見切りを付けてくれたきっかけとなった。いずれにせよ、本作の内容はまた時期を見て明確にどこかへ明記する。
さらに日本でのハナシだが、もう一度ホラー映画を作りたくなってきた。これは戦略的意味合いもある。意義のある独創的ホラーを作ればまた米国での上映、DVDなどの展開はできるかもしれない。「吸血」から学んだ様々な失点、また発展できる要素は発展させ作品に取り入れたい。日本での上映、配給等も考えられなくない。今度こそ80分以上の作品にして単館での上映を図る。ホラー、といってもアートファンタジーホラー?とかだろうけれど。

3月のアップリンクの上映会はこれまでの歩みを昇華し、次のステップへ行くための意味合いが込められている。「吸血」も「変異之夢」もえらく変わった映画だ。ようはオレにしか作れないものだ。そういう意味でやって良かった。生きていくのは辛い、が、量産型の映画を作る映画作家になるつもりはさらさらないんだから。辛いのは、当たり前なのだ。批評家がどう判断しようとそれはオレには大して関係ない。
いろいろあった年だが、通り抜けられて本当に良かった。
来年の自分へのまた新しい展開を願い、睨みつつ、恒例の一言
~来年こそ世界中がもっと良い年になりますように! 良いお年を!

2016年12月26日月曜日

「Kumagusuku~Attraction」体験

「Kumagusuku~Attraction」体験
今日は最終日のサイトA企画展示会「Kumagusuku~Attraction」をはじめてお客として見てきた。はじめて、というのは実際はウソでオープニングでも客だったが、人が多かったので集中度に欠けてたのだ。

初冬の、雨があまり降らない時期に行われたのはまず正しかったと思う。空間表現の傾向が強い展示会は大抵天気が良いほうが気分良く伝わってくる気がするから。入ってすぐのオブジェのような”装置”の配置のされ方も建物の構造との関係性が丁寧に考えられており、空間調和が十分成立されている気がした。三つの”装置”には黄金町の三人の異なるアーティストの作品が一点ずつ置かれている。絵画、オブジェ、映像という異なる存在は、これらもまた均一な空気を乱さないカタチで一見、空間との静謐な関係性を保持しているように伺える。が、その印象は実際には外から得るもので、一度その”装置”に身を据えて作品を「体験」すると、周囲の空間性の穏やかさとはまったく異なる時空が放射されていることに気がつかされる。それらは作品の様々な面、素材、制作方法、意図、さらには作家本人の苦悩や人格にいたるまで様々な次元で考えさせられる。それは否が応にも目の前にあり、一種の圧迫感さえ覚えるほどだ。これはまさに作品を「体験」する”装置”に他ならなかった。映画館で映画を見ている体験と少し似ているかもしれない。だが、さらにハッとさせられるのは、見ているこちら側の人間だけが勝手な感受性で感じている、ということに気付かされる、ということだ。目の前の作品は、少なくとも三つのうち二つは、まったく微動だにしない。この作品と観客(観察者)という関係性からようやく「なぜ人は作品を見るのか?見ようとするのか?」などの根源的な疑問に「体験的に」立ち返ることができる。これはおそらく企画者、または制作者の本来の意図とは違った方向性なのだろう。あるいは当の作家本人らもそこまで考えてもみない事かもしれない。だが、アートとは本来そういう存在である、ということをこれが無制御な”装置”であるが故、自ずと語りかけてくる・・。

”装置”制作者である矢津氏は同じ発想で京都でホステルを経営している。そちらの記録映像も上映されており、それを見た印象は、ちょっと行って一日でも「体験」したくなる、感じ良いものになっている。正直言って、当初宿泊費が少し高いかな?とも思った、が、今日の体験を経てまったくそうではない事に気がつかされた。
なぜ人は作品を見るのか?またアート観察者は一体どこまで深く作品に関与するべきなのか?という根源的な問題を考えさせられ、同時にアートや文化に無関心な社会にこの「体験」は必要かもしれない、とまで思わせてくれた。矢津氏の今後の活動に期待したい。
https://www.koganecho.net/…/even…/event-exhibition-1999.html

2016年7月26日火曜日

恋愛観一考

恋愛観で価値観の違う人と話すほど時間と労力の無駄なことはない。

いまドイツから来てるスウェーデン人アーティストのイーダ氏とは落ち着いて話せた。久しぶりに同じ目線で話せた気がした(話したといってもこっちは聞き役だったのだが・・)。
いずれにせよオレの価値観はおかしいのかもしれないけど、おかしいのは表現者ならではの性(さが)だと思ってる。
いわゆる世間を騒がす色恋沙汰も、決まりきったことなど本来ないはずのに、世間はなにかと型にはめようとしたり、勝手な想像でありもしない物語を作って笑いのネタにする。

たかが人の問題なのにな・・・ そもそも人の感情に他人がどう介入できるというんだろう?なにがそんなに面白いんだろうか?さっぱり判らない。 単純に、子供じみた浅ましさしか、伺えない。

そしてどういうワケか少し前まで気になる子はいたけど、いまはもう誰のことも思わなくなった。
なんというか、一帯に何かと餓鬼っぽい臭気が漂っている気がしてならない。これは単にオレが落ち着いた、格好つけない本来人と人同士の共有を求めているからなんだろうと思う。

ただ、それを求めるには何年も孤独な道を選んでしまった汚点のようなものがあるにはあるが・・

ま、今後どんな出会いがあるのか、それが楽しみだ(笑)