2010年11月11日木曜日

ようやく全てが終わる

『ファラヲ』から1シーン
これまで10年以上インディペンデント映画活動を続けてきて始めてようやく肩の荷が下りたナ、という気持ちがする・・。つまり、とても開放された気がする、ということかな?
『吸血』『ファラヲ』という2本の作品は両者まったく作風の違った作品だ。3年の時が流れ2本の中篇作品を完成させ、ここで一旦映像作家として自分がどういう立ち居地にいるのか?じっくりと考えてみたい・・。
『ファラヲ』を完成させて改めて痛感したことは良いも悪いも観客との「ズレ」。この「ズレ」は一体なにが原因か?これを日常生活を通して改めて検証してみたい。果たしてこの「ズレ」は健全なものなのか、あるいはまだまだ修正の余地があるものなのか?この答えが自分なりに掴めない限りオレはたぶん次の作品のスタートが上手く切れないというか、曖昧なものになるような気もする。
ま、こういう一種の言い訳は、殆んどカッコツケではあるんだが・・・(→始めちゃえばたいがい映画がついてくる)。
そういった気持ちを抱えながら思わず接点を感じて信さんのサイトに「題名」と題し題名についてついつい書いてしまった。つまり、作品に挑む前に「精神的とっ散かった状態」を一旦整理したいワケだ。制作前に作品のイメージを題名というひとつの観念に置き換え、自覚することで作品が力強くなるんだろうと・・・。
次の作品の『Air...』はもう題名は決まっており、すで作風がロックオンされたみたい・・。 『ファラヲ』ポスプロ終了直後からアイデアが浮かび始めていて、アイデアの方はこっちの精神の整理などまったくお構いナシに活動している(笑)。ひと通りのアイデアが浮かんだら、一度それらをアウトラインできちんと構成してみようと思う。むろんいままでもそうしていたが、少しアプローチを変えてみたい。もう少しドラマ脚本を書く時みたいに映像化された時の状態を具体的に捉えたい。アブストラクトなシークエンスを集合させ「明確に」画の向こう側で接点を持たせたいワケだ。 
・・と、書きながらあまりいつもと変わらんとも思うのだが(笑)

おそらく、その接点の意図が、より日常的であることによって、観客との「ズレ」を狭め、さらに意図的に突き放すこともできるだろう、と思惑する。が、これはちょっと観念的過ぎるな、どうやんだよ、って純粋な疑問。  ま、でも試みは捨てないでおこう。