2007年9月20日木曜日

少し思うところを書けば、インディペンデントをやってそれが充実していれば、それに越したこともないという事実、、そこにぶち当たっている己。
それに対して 「商業の魅力とはなんだろう?」 という純粋なギモン。
「商業で撮りたくないのか?」 という質問に 「イヤ、そりゃ撮りたいよ、撮らしてくれ!」 という中(うち)からの声・・・
これは経験したことのない者が一往に抱く欲求。

映画は死んでいる ~ みんなが殺した

映画は生きている ~ 躍動する画の中で

「なぜ撮るのか?」 という疑問に 「撮りたいからさ」 という現状。 キミ(オレ)の映画は意味が判らんという声に 「なぜそんなに意味を知りたいのか?」 という単純な問い。 じゃあ意味の意味するものは?と、よくよく考える。 やがてオレはいままで意味の判る映画など一本も見てないという、ことを知る = まぎれもない、真実。 

だが、まてよ、この問題を誤って解釈した映画も沢山見てきた。 同じ心境でテレビでもこれを良く見る。

メディアは調教師

懐疑主義者は堂々巡り

だが、すくなくとも 「撮りたいからさ」 とか 「見たからさ」 という言葉は天からのものだ。誰もオレを止めたりはできない。その言葉に意味はない。その意味で、そんなヤツの作ったものも「意味のないもの」なのだろう。

欲望、欲求のために作る、つまり 「生命力」 

これは、「生きた映画」ということにならないだろうか?