2010年3月26日金曜日

雨。
まだまだ寒い。こう寒いと反対に夏はえらい暑くなんのかと、いまから心配になってくる。世の中、真偽のほどは如何ほどか、微妙な広まりをじわじわ展開している「温暖化」を思えば、単なるフォーマット伝染運動に過ぎないのかな?とふと思ったりもする。

時代のデジタル化が定着し始めた頃から自身の問題意識のひとつであるメディア論(批判)は現在も脳内の一部で活発に活動している。その意味での「問題視」は、当然各作品に内包されているワケだ。言葉でそれを言ったり、他者と議論を展開するはさほど難しいことではないが、サブリミナルじゃないけどそれを一種のメタファー的文法で映像化することは、観客へどのように影響されているのか? これから何年もたったあと己の作品はいかなるカタチで時代に埋め込まれるのか?そんなことを日常業務のなか、自問したりする。。

神秘主義であるべきか現実主義であるべきかという問題は常日頃脳内にあって、簡単に言えば感覚派か理論派かということなワケだけど、どちらも重要だ。バランスを取る舵取り役こそ自身であって、そいつは常にその葛藤から逃れらない状況に置かれているワケだ。片方をだけを信仰すると必ず躓いてしまう、この皮肉な世俗的法則は悪戯な悪魔の仕業に他ならない。信仰などは一切捨ててボンヤリ幻影のように目の前に立ちんぼする「今」と如何に組み合うか、それが肉感的であればあるほど、皮肉な虚構かもしれない「達成感」を味わえる。
いずれにせよ、こう考えるのはもともとが感覚派に作られているからであって、そいつがこの3次元にはなかなか納まらないから厄介なワケだ。。。(笑)

2次元的表現媒介である「映像」が3Dに本格的に取り組み始めている現状を見ると本来、映像というものが疑似体験を体現する媒介であることを改めて通観するワケだ。それになんの徳があろうか?という議論など資本家には関係ない。効果のほどは賛否両論に窺えるが、映画が映画からさらに遠のいているようにも思う。かといってそういうのが嫌いなわけじゃない。しかし、な、という感じ。

商業的画面と非商業的画面、または市場主義的画面と庶民的主義画面など、いろいろな言い方はあるが、3Dの普及に反してドキュメンタリーの普及を忘れてはならない。最後には内容が勝つ、ということをドキュメンタリーには達成してもらいたいものだ。坐・高円寺であった映画祭は結局、多忙で全て逃してしまった。個人的にはもし次回あるならワイズマンを一本でもいいからやってほしい。ほかには小川伸介アーカイヴとか、少し違った傾向でメカス、そしてソクーロフなんかもあったら、興奮するな。ま、第2回は必ず行けるように準備しようと思う。