2011年11月27日日曜日

終了。

「吸血 Sanguivorous」北米上映第1弾、シアタートラム「往転」と11月に控えていた二つの企画が終了。北米上映は「往転」期間中だから当然足を運ぶことはできなかったが、とりあえずは、インディペンデント映画作家としての重要な一歩だったといえる。現時点ではどのくらいの人が足を運び、評価のほどはどの程度だったのか、殆ど判らない状況。ただ上映の数週間前に映画批評を書いているRobert Smart氏からメールインタヴューを申し込まれ、それに応対したが、いまのところそれ以上の進展はない。いずれにせよ、今回の上映を運営してくれたタイドポイントの伊地知氏、さらにライヴ上映を現実のものにしてくれたジャズミュージシャンの中谷氏とE.Wilkerson氏に心から感謝すると同時にこれまで関わってくれたすべての関係者に感謝を申し上げます。
 一方、「往転」の映像制作とさらにライヴカメラマンとして出演という冗談のような大変な仕事(!)、こちらもいろいろあった。まず個人的に上演の2週間くらい前だったろうか、父親の様態が急に悪化し施設から緊急入院することになり、超多忙の中、それを応対。さらにその数週間前から激しい腰痛に苛まれ、稽古現場に多大な迷惑を掛けてしまった。まったくもって嵐のような10月、11月だった。それ以外にもこのままでは間に合わないということで急遽新PCを出演料の前借りして組み立てたりとあれやこれやの日々だった。それでもスタッフキャストの皆さまの協力のもと、なんとか初日を迎え、楽日までたどり着いた。いつまでたってもプロになりきれない自分に歯痒さを感じるも(!)、皆さんのお力がなかったらここまで来れなかったはず、改めて感謝申し上げます。。。
 「Sanguivorous」を見に来てくれたアメリカのお客様、「往転」を見に来てくれた日本のお客様に心から感謝申し上げます!

近況の報告
  • 「往転」の映像機材  おそらく今回使われた機材はこれまでの劇中映像経験の中で一番多かったんではないだろうか。殆どがバックアップ用とはいえ、ライヴと作り込み映像が交差する複雑さのためか、その膨大な映像機器類に圧倒。舞台上ではパナソニックの小型ハンディカメラだけであったが、その舞台裏では小さな部屋が埋まってしまうほどの機材、さらにそれを映し出す3台の大プロジェクターが活躍していた。むろんそれを操作するオペレーター佐藤 守氏の活躍も忘れてはならない。。。! 今回はライヴ映像もさることながら、福島の実写映像、CG、人物合成、さらに昔ながらのコマ撮り映像など、様々な映像が混入したものだった。7年前の「リア王の悲劇」同様、予算もあるため大胆な特殊撮影なども行うことができた。改めてパブリックシアターの熊谷さん、勝さんを始めとしたスタッフに感謝申し上げます。
  • 腰痛  長年使っていた椅子が夏頃から壊れ始めていた。そこでお客さん用の簡易的な折り畳みカウンターチェアでずっと作業していた。当然といえば当然だが、これが長時間座るような設計にはなっていなかった。幸い知り合いの伝手で梅ヶ丘にある整骨院に通いなんとか舞台を最後まで切り上げられた。この整骨院に通うきっかけは後日として、淡島通りからバスで梅ヶ丘、終わって徒歩で山下の世田谷線で三軒茶屋まで向かうのが今となってはもうすでに懐かしい。
  • 福島(9.8~11)  もともと福島が舞台の一場面である「往転」だが、桃が重要な役割を果たしていた。そのためいろいろ考慮して急遽福島へ桃を撮影しに行くことに決定。だが時すでに遅しでもう桃が終わる9月始めだった。それでもバス車内の映像も必要かもしれないし、現地に行ってなにか発見することもあるだろう、まずは行ってみて判断しようということで、単独で福島入り。夜行バスで午前4時前に福島駅到着。何とか時間を潰し、9時、駅構内の観光局で情報収集。桃もむろん大事だったが、同じくらい、いやそれ以上に被災地が気になっていたことは、今となってはいうまでもない。。。 一日目でなんとか最後の種の桃の撮影に成功。次の登場人物が住んでいる家の探索は二日目から。飯坂温泉の熱湯のような熱い湯で疲れきった身体を癒し、二日目、登場人物の住む家のモデルを何軒か撮影したあと再び飯坂温泉へ。熱い湯でゆっくり過ごしたあと、現地の人が薦める雑貨屋「あとりえうたかた」を尋ねてみることに。。。 店内はアンティーク系の小シャレた雑貨が並び、古風な写真が幾点か飾ってある。温泉街のため石鹸もあるが、それも欧羅巴風な無添加石鹸。どことなく田舎の温泉街とはいえない都会風がゆったりと流れていた。やがてオーナーがふっと顔出しなんとなく話し始めると、なんとそのオーナーの藤原さん、震災数週間前まで東京に住んでおり、同じ映像業界でしかもイメージフォーラム卒業生と判明。意気投合し、その日は氏の薦める宿へ泊ることに。翌日は氏の自家用車で沢山の場所を案内していただき、ご飯までご馳走して頂いた。なんとか必要な素材を収集できたのも氏のご協力あってのこと。0時出発の東京行き夜行バスに乗るところまで見送っていただき、大変ありがたいご丁寧な接待を受けた。震災、原発などの様々な情報(現地ならではのハナシ)を聞くこともできた。残念ながら、被災地へ赴くことはできなかったが、氏が震災直後から現地で取材しているドキュメンタリーの完成を心待ちする現在である。