2014年5月12日月曜日

20年

今年の暮れで母親を失って20年になる。早いものでそんな長いあいだ会っていないのだな。そんな時、古い友人の母が他界したとの連絡があり、それから数時間後べつの知人から子供が生まれた、との連絡も。生命の流れがたゆたう渦中に様々な出来事も成されている。だがまあ出来事とはいうが、人は自然の観察者であるが故のもので、観察者たるもの脳という別形態の宇宙があるがため。種々雑多な命の成り立ちなどは渦中にある物にとっては関連し合ってはいても感傷的にはあまり関係ないものだろう。宇宙に存在する雲上のガスや死んで行く恒星、発展途上の銀河や星団の写真を見るたび生命の形態が顕微鏡の下の実験液に浸され変化していく物質となんら変わらないように思う。違うのは時間とか大きさだが、どちらにせよ同じ土台に属す物同士に変わらない。命における3次元での課題とは、実験液のような宇宙に投げ出された変化、いわばその発展と記憶の成り立ちといって過言ないのではなかろうか。そういう意味ではオレ達の腐敗しきった社会の形態もその宇宙に属するはずなのだが。
いずれにせよオレの母親の記憶とは、亡くなった頃、母を題材にした本を書いたことか。手書きで書いたそれを印刷し、製本して生前親しかった人に冊子を配ったりした。なんというかそれが終わって暫くして母のことを話すことも思うことも封じてしまった。長いあいだ、10年はあったろうか。それが終わって少し思い出すようになると張り詰めていた何かが緩んで日々の生活が苦しくなっていった。何か弱っていくような。だからってなにが悪いということもなく、すべては体験であることに他ならないのだが。後悔はない。だが、オレはどこか欠けちまってるよな、とも思わないでもないし、その洞察は至極正しいかろうと・・。父親を失ってもうすぐ2年だが、母を失ってからの壮絶な生活を思うと彼女の影響は凄かったワケだ。若くして大成した人だったため周りの家族は堕落し振り回される、という聞いたことのある構図だ。今はじつに良い体験をさせてもらっている。オレも大人になったし親も他の未成熟な人間となんら変わりはなかったということは良く理解できている、と。

・・なんかこういう文章からだと想像し難いだろうが母とは生前とても仲が良く一番の理解者だったことも間違いない。今生きていたらどうオレを支えてくれたのか?と想像する事はよくある。だが、いない、のだ。そう、それが故のことだったのだろう。考えたところで始まらない。

いずれにせよ、その世間知らずだった母親だが、ここ数日夢に良く出てきていた。特別な夢の印象もないのだが。あの世がどうのこうの、という話は置いておいて記憶、あるいは脳みその中でどんな脳波が刺激しあっているのか?その一種小宇宙的メカニズムは人が目覚めたおりになにを示唆するのか? ・・いやいや、ありゃただの夢なのだと。そんな母の日であった。