2014年9月30日火曜日

アーティストインレジデンスを考えている

黄金町、それからたとえばドイツのアーティスト/キュレータのマイケル・クレスと出会ってレジデンスの意味合いを意識して考え始めている。たとえばドイツへ行って作品制作へ展開させるための準備と、その準備のための根本的且つ主体的な「構え」みたいなものは、どう己から発掘するべきか?~を真面目に取り組みたい。

「なぜオレはこの国、街へ赴くのか?」
「オレとの関係性はなんなのか?」

作家(/アーティスト)の主体性と文化的社会への「還元」は本来一切関連性ないものだろうと思う。だからそこへ赴く以上、それは言ってみれば「仕事」なのだが、同時に「遊び」がないと官僚的になるばかりだ・・。
最近、黄金町に滞在していたアーティストが、バザール参加作品を完成せずして街を諸事情で出て行ったのだが、そういう可能性は誰にでも起こり得る問題なのだ。作家としてレジデンスに属している以上、なんらかの展開を策してその成果を還元する作品を産み出さなければならない、とさえ認識していれば、たとえば体制側や出資側との構えや立ち居地みたいなものも見えてくると思うのだが・・。 つまり作家は、その瀬戸際で如何に取っ組み合うかをイメージして創造活動に徹するか、更に状況を楽しむか、さえ掌握すれば、さほどの苦悩はなかろうと思う。むろん同時にそれとは全く別口で吐露する環境も確保しなければならない作家も当然ながらいるだろう~かくいうオレもその一人だと思う。
思想の違いや言論は、民主主義が機能している以上、守らなければならない。単純に税金を使っているからアーティストは還元しなければならない、とか、そういうハナシではなく、民主主義の活性化のためにアーティスト導入や街づくりが進行しているはずなのだ。だから極端かもしれないが、アーティストは、聞こえは悪いけど(!)、政治家(=市民代表)のごとくその社会文化の機能性を広げられるところまで広げなくてはならないし、地域住民や関連団体、そして官僚や役人らと協議、協力しながら発展させていくものなのだろう。そして、その行為そのものが法やそれを堅持するはずの民主主義を豊かにするはずなのだ。でなければ、一体何のためのアーティストインレジデンスなんだろう!? という疑問が、自ずと浮上してしまう。 現実問題、その認識が低いため市民権を得ているのかさえ疑問だ。「資本主義国家」なのだから「税金の無駄遣いだ」とすぐに言われてしまう。そういう民意の低さは民主主義が機能し損なっている証拠に他ならない。