2005年9月20日火曜日

は~ぁ

自転車でよく駒場近辺を回る。今日も気分が乗らないから下北沢まで行ってきた。パスタを注文し、いま読んでるコリン・ウィルソンの自伝『発端への旅』を読んだ。まだ読み終えてないけど、面白い。このまえ読んだウィルソンの本は『形而上学者の性日記』だった。アレイスター・クローリーをモデルにしたカンニガムという魔術師が出てきて作家自身を想起させる作家志望の主人公が出てくる、えらくお気に入りの小説だった。
ほかにウィルソンの『精神寄生虫』という小説もずいぶんまえに買ったけど、そういえばあっちはまだ読んでないや。
読みながら思ったのは、作家には大きく二つのタイプがいて、しばし強引に自分の説を書き綴る作家-トルストイが良い例-と、そうでない作家、たとえばドストエフスキーはあれだけ後世の作家に影響与えてるけど、どちらかというと自分の説を思索の闇に葬ってしまう-ハッキリいわないタイプだ。そういう例で言うとウィルソンは完璧前者。トルストイとの違いはウィルソンのほうが表現も現代的でドキュメント形式の著作も多いせいか写実的描写よりもfactにこだわる。
まあぜんぜん違う手の作家だけど、ハッキリ言うかいわないかという点で共通する。またいま書いてて思ったけど、現代的であるが故にウィルソンの方が小説になると空想家になる。

映画はときにその方法論において、ほかのどの芸術よりも庶民的空想表現を必至とする。そこがいわば映画の美徳かもしれない。しかしまた同時にそれは映画を「芸術」と認識される価値から離れさせ、「作家」たちを歯痒くさせる。

でもってオレの次の映画はいったい~・・?
ナ~んてね~