しかし映画/映像なんてバカにされたものだよな、四方から「総合芸術」と勝手に刷り込まれ、学者からは2流と格され、庶民からはテレビと同等とされ(あるいは、されるべきとされ)、文法を害せば難解と称され、芸術家からは常に破壊されるがまま。 つまるところ、お前は情報以上の何者でもないのだ、とみんなが執拗に謂わんとするかのようだ。
誰も映画を理解しようと試みない。ま、研究家は少なからずはいるが・・しかしそれは古典科学者たちが光の媒介:エーテルを探求したように、無益なものかもしれない。アインシュタインのような輩が「エーテル?ないですよ」と言ったが最後、誰も言及しなくなる:そして近代科学が拓けたワケだ。
いまの映画の状態は「映画?ただの情報ですよ」と言われるがまま、大資本市場の大舞台に乗って背後関係者のご都合主義の恰好の道具として振舞っているかのようだ。
映画の単独性はやはりいまのところ、作家性という状態以上のものでは発揮されてない。タルコフスキーであろうがスピルバーグであろうが、作家の主張とはメッセージとはまた違った類のものだ。言葉に置き換えられない主張こそ映画の単独性だとオレは言いたい。
黒澤が「一生懸命赤を塗ってんのに、批評家は青じゃないという・・」というのはまさにひとつのステレオタイプの高慢な錯覚が発生しているからに他ならない。批評家と名乗る輩の主体性または目指すところとはなんだろう?沢山見たから、こう言えるとういことだけか?映画監督なり作家にとって知識なんて本来なんの価値もないということをまず頭に入れてほしいな。
だが作家の意図と映画の本性とはまた違ったところにあるともいえるだろう。
まったく、映画とは、なんて不恰好なヤツなんだろう。。。