しかし、長編映画脚本があってもそれを読んでくれるようなプロデューサーいるんだろうか?と疑問に思う輩もいるだろうが、そこは「ないよりはマシ」ってことで、こればっかは巡り合わせと思っている。第1弾はこれまでに2名の某プロデューサーに読んでもらい一度は映画化までに漕ぎ着けたが結局ポシャッた(笑)。オレはべつに監督にならなくても良いと思っているので(そりゃなれたらやるけど)、いつでも「ハイどうぞ」と渡せるものがあるという体制を整えておきたいというのが狙いなのだな。
しかし、もっと速いペースで書くことはできないだろうかナ?
『パステル』(仮題)はハコ書きを徹底的にすることが一番と思うのだが、現状ではそれも進んでない。現在5分の2くらいは一応書き上げられてて、あとまたじっくりと腰をすえて、、と思ってるから全然できてないワケだ(笑)。しかし、やる、やるからにはやるぞ。
こないだ黒テントの『イスメネ・控室・地下鉄 ~終らない終りについての三章~』を観た時、「オレも戯曲を書いてみたいナ」なんて軽々しく思いついてしまって(!)、これもなかなかさ、つまり戯曲って映画脚本に比べてなに書いてもイイって感じがしたワケだ。舞台はふと誰かが出てきて終わりまで延々と喋ったとしても成り立つ「空間」ってものがあって、それを好きなように使えるという自由がある、と。。。 映画でそれやると殆ど失敗する。やっぱ映画は「時間」に支配されてる。饒舌で言えばウディ・アレンは自然体で上手くて、その上手いってのはつまり言葉のやり取りがリズムになってる。山中貞夫の映画もテンポが(天才的に)良くって観てるとついついワクワクしてしまうんだよナ(笑)。映画のテンポってのは録音システム後の音楽と一緒で、オリジナリティーってのは、やっぱトーンにあるんじゃないかと思う・・。映画は作家(監督)のテンポにあるんだろう、ともいえる。 黒澤みたいにいろんなタイプの映画を撮った監督はやっぱそのリズムで失敗する場合もある。いや、というより観客の固定観念のリズムと黒澤の作為が時にズレてしまう、ということかもしれない。『悪い奴ほど~』と『天国と地獄』じゃあ明らかになんか違うと誰もが思うワケだ。ある意味、黒澤映画で一番一定一貫したリズムで最後まで心地良く行ったのは『虎の尾~』で、その次に『デルス・ウザーラ』、この2本くらいじゃないかな? まあある意味どうにか『八月の狂詩曲』も入れても、良いかも。 しかし他はどっかリアリズムみたいな「生っぽさ」を出そうとするヘンな癖があるんだよな。