2009年6月25日木曜日

夏らしく

ようやく夏らしくなってきた。
梅雨が明けたら本格的に熱くなる、ま、いつものことなんだが。人間の生きる寿命なんてホント短い。どんな人間だって100回季節を迎えられる人はそういない。オレなんて秋と春は10年の米国生活で殆ど味わってない。あっちは殆ど夏か冬だったから(笑)。 何年かぶりに春、九段坂を歩いたとき、武道館の御壕で石垣と青々した芝生にしな垂れた染井吉野がゆったり春風を浴びながら堀池に桜吹雪を散らしているの見て、その神々しいほどの色彩に「・・なんて、美しいんだろう」と震えたのを覚えている。外国人がワケ判らず「it's beautifull...」なんていうを聞いて苦笑するが、彼等にただならぬシンパシーを覚えたワケだ(笑)。しかし同時に、見慣れる、ということが如何に意識の上で罪深いものだろうと感じ、恐ろしくさえなった。自分にとっての10年の渡米生活は如何に固定観念を持たないか?という課題であり、またそれへの対策でもある。
だが、現状で言うと一種の決め付けが周囲のあらゆる思想に対する提示ということでもあり、「答」という概念が持つ説得性が作品創作のひとつの妥協案として、また「始まって終わる」という生理にとって必然だということに、一種の違和感と苦痛さえ覚える。しかし、作品の運命とは結局そんなものなのかもしれない。確かに、考えてみれば作品は自分の人生より一般的時間において絶対的に短いわけだから。 「答」という説得性というか・・・、つまり大袈裟かもしれないが、それは「死」と同列であるべきなんだろう。そう思えばもう少し積極的に「オチ」というモノに取り組むこともできるのかもしれない。「これは作品にとって死である」とすれば、自己啓発的に物語/ドラマツルギーに対して忠誠を誓うこともできるのかもしれない。タルコフスキー症候群からようやく脱皮できるのかもと。。。。(笑)  たとえば『七人の侍』で志村喬の「勝ったのは農民だ・・」みたいなセリフはどうしても決着への妥協案にしか感じられなくて、男の子っぽい恥ずかしささえ覚えてしまう・・。しかし、黒澤の潔い真摯な姿勢はやはり買うべきだとして、最終的に「完」となって作品と心中するワケだ。 ・・・だが、『羅生門』の俗に言われるワケ判らない終わりの方がやっぱりオレは好きだし、心中するなら100%あっちだと思う。
結局、哀しい哉、これは国民性ということか? だが現代はまったくもって芸術文化という「感性」への欲求が麻痺している。これは国民性を操った教育であるとどうしても感じてしまうオレはインボーロンに嵌り過ぎの傾向なのだろうかと、ついつい自問する、ワケだが・・・(笑)
  • 永松さんと話す(6.23)   新宿で『吸血』のプロデューサーの永松さんと久々に話す。いろいろ今後の展開など。29日に批評家の志賀さんと会うことになった。
  • 寺島さん(6.1)  映像作家の寺島真理さんの愛知芸術文化支援の作品を少しだけ手伝っている。彼女の旦那さんの岩本賢児さんともお会いして、『光と影の世紀』(岩本賢児著 森話社)という本を頂いた。大変読みやすくて映画の始まりから現状までいろいろと詳しく書いてある良書である「最近の映画には影がない」みたいなこと書いてあって、「ウ~ム、これオレが吸血でやりたかったことじゃん」みたいな感じで嬉しくなる。さらに偶然、岩本氏はベケットカフェでお世話になった岡室さんの先生でもあったらしくびっくり。。。寺島さんは『吸血』とても気に入ってくれたので、今度の試写会では岩本さんもお誘いしてみようと思っている。