2009年6月26日金曜日

中国エーガ

今日、後半部分しか見られなかったが、李継賢(リー・チーシアン)監督の『1978年、冬』を偶然見た。とても良かった。久々に良い映画に出会った気がする。良い映画(監督)に出会うととても幸せな気分になる。李監督はこれから期待の中国の監督だな。*画像は『1978年、冬』の一場面
台湾になってしまうけど、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)や楊徳昌(エドワード・ヤン)も久々に見たくなってきた。楊徳昌の『牯嶺街少年殺人事件』はいままで観た映画のベスト3(順不同)に入っているし、『恐怖分子』『恋愛時代』『カップルズ』は何度でも見直したい作品だ。侯孝賢はあまり観てないんだけど、とくに好きだったのは『冬冬の夏休み』だった。
いまふと思ったけど、香港映画やインド映画、それからアメリカ映画みたいに映画産業が盛んな国の映画、たとえば、香港の巨匠となったウォン・カーウァイの初期の映画とか観ると予算がない感じが画面にえらく映ってる。映画産業が盛んな国の映画ほど金がないとその貧乏臭さみたいのが画面に溢れて、一種がさつな撮影現場の匂いが立ち込めたように見える。またそういう国の、金のかかった映画はやはり「お金かかってます!」と言わんばかりの臭気が画面一杯、誰の目にも判るように仕上げられている。しかし一方で映画産業がそこそこの国の、大した制作費もかかっていない映画を観ると、貧乏臭さなんてつゆ知らず、キャメラが人間の内部まで浸透したような、美しさが滲み出ているような気もする・・。資本主義制度に追われた社会/人間の歪みは、やはり映画の画面に自ずと滲み出るものなのかも知れない。キャメラは透明な空気まで記録する厭らしい作為者だ。むろん、であるからこそ、映画は芸術であることを諦め切れない。つまり、生意気なこと言ってしまえば、日本映画の現状は、やはり醜い。日本映画が万が一再生した暁にはいま現状で作られている殆どの映画は残らないと、敢えて断言する。文化的恥じとしては充分残るだろうが。「なんでこんなもんに大金かけてるの!?」「お金儲けのため」「そんなに儲かったの?」「べつに・・」と言う声が聞こえてくるのは、オレだけじゃない筈だと思うんだが・・(笑)。
日本映画よ、一度死んでくれ! 誰の為でもなく、自身の為に